thevolleyballanalyst(Hai-Binh Ly)のブログ紹介シリーズ 第1回
試合が終わった直後、多くの指導者はロッカールームで選手たちにこう話す。
「今日のサーブレシーブは悪かった」「第3セットの流れを切れなかった」「あの場面のトスがよくなかった」——おそらくこういった言葉が出てくるはずだ。根拠は何か。ほぼ全員が「見ていたから」「そう感じたから」と答えるだろう。つまり、記憶だ。
イギリスを拠点に活動するパフォーマンスアナリスト、Hai-Binh Ly(以下Binh)は、この「記憶への過信」こそがコーチングにおける最大の落とし穴のひとつだと指摘する。彼のブログ「thevolleyballanalyst」の中で最も重要な記事のひとつが、この問いに正面から向き合った”How Memories Can Fail You (And Thus Why You Should Use Performance Analysis)“と、その前身となる“Why Do We Need Volleyball Statistics?“だ。
今回はこの2本の記事を軸に、「なぜデータが必要なのか」という根本的な問いを掘り下げていく。
試合中に起きていることの量
まず、数字から考えてみよう。
Binhは“Why Do We Need Volleyball Statistics?“の中で、バレーボールの1試合で起きるプレーの総数について言及している。その数、およそ1,000〜2,000。サーブ、レシーブ、トス、スパイク、ブロック、カバー——これだけの動作が1試合の間に積み重なっていく。
コーチはその全てを記憶できるだろうか。Binhはサッカーに関する研究を引き合いに出しながら、コーチが試合中の重要なイベントを記憶できる割合はおよそ50%程度だと述べている。バレーボールでの正確な数字は不明だが、仮に半分しか記憶に残らないとすると、試合後のフィードバックは「起きたことの半分しか見ていない情報」に基づいていることになる。
「もし試合全体の記憶が断片的なものでしかないなら、その後の分析は不完全な情報に基づくものとなる。これは危険なことだ。なぜなら、不完全な情報の分析は、選手に誤ったフィードバックを与えることにつながりかねない」
(”Why Do We Need Volleyball Statistics?“より筆者意訳・要約)
「誤ったフィードバック」という言葉は重い。善意で、真剣に選手のことを考えて伝えた言葉が、実は起きていなかったことを根拠にしているかもしれない。
記憶には4つの限界がある
Binhは同記事の中で、コーチの観察と記憶が抱える限界を4つに整理している。これが非常にわかりやすい。
① すべてを記憶することはできない
先述のとおり、1試合で起きるプレーの量はあまりにも多く、人間の記憶容量には限界がある。どんな優秀なコーチでも、試合全体を完全に記憶することは不可能だ。
② 時間が経つほど記憶は薄れる
Binhはこの点を特に「シーズンを通じた成長の把握」という観点で問題視している。「今のチームは開幕戦に比べて成長しているか?」という問いに、記憶だけで答えられる人間はいない。3ヶ月前の第1節の試合内容を正確に覚えているコーチは、まずいない。データがなければ、成長を客観的に評価する手段がそもそも存在しないということだ。
③ 人によって記憶することが違う
Binhは自分自身の例として、「ブロックのフィードバックだけは全くできない」という趣旨のことを書いている。選手にブロックについて聞かれても、自分には完全な死角があってわからない、と。記憶には個人の経験・信念・注意の向け方が強く影響する。ある局面を熱心に見ていたコーチと、別の局面に集中していたコーチでは、同じ試合を見ていても「記憶した試合」が全く異なるものになる。
④ 記憶したことが、実際には起きていなかった可能性がある
これが最も衝撃的だ。人間は存在しない記憶を作り出す——いわゆる「誤記憶(false memory)」が起きる。Binhが引用する研究では、経験豊富な体操コーチが、実際には違いがないパフォーマンスに対して「差があった」と報告するケースが、経験の浅いコーチより多かったとされている。つまり、経験を積めば積むほど、誤った確信を持ちやすくなる可能性があるという、直感に反する事実が示されている。
Binh自身が経験した「完全な誤記憶」
ここからが、このブログ記事の真骨頂だ。
Binhは”How Memories Can Fail You”の中で、自分自身が経験した誤記憶の具体的なエピソードを包み隠さず公開している。
2022年のAll Nations Londonトーナメントで、BinhはチームUSAをコーチした。そのチームに、Maggie Stewardというアウトサイドヒッターがいた。Binhには以前、Cambridge & Anglia Ruskin Universityというチームでリベロを務めていた「似た名前の選手」の記憶があった。しかし彼の中では、「体格も違うし、ポジションも違う。名前が似ているだけの別人だ」と完全に確信していた。
彼はその「確信」を、チームUSAの別の選手に話しすらした。「面白い偶然だよね、同じ名前なのに全然違う人なんだ」と。
ところが後日、DataVolleyで過去のデータを確認したところ、Cambridgeのリベロの名前は「Maggie Steward(dあり)」であり、自分がずっと「Stewart(tあり)」だと思い込んでいたのは完全な思い込みだったことが判明した。さらに映像を確認すると、2人の選手は同一人物だった。Maggieが後に本人としてそれを確認した。
Binhはこのエピソードについて、次のように結んでいる。
「このことは、なぜパフォーマンス分析を使うべきかのまたひとつの例だ。あなたはすべてを記憶することができないし、記憶していることが誤りである可能性もある。では、不完全で誤りさえ含む可能性のある記憶に基づいた観察の分析とフィードバックを、どうやって選手に提供できるというのか」
(*”How Memories Can Fail You”*より筆者意訳・要約)
このエピソードが示していることは単純ではない。Binhは当時すでに10年以上のアナリスト経験を持つプロだった。それでも誤記憶は起きた。しかも、「確信を持って他人に話す」というレベルで。
自分の記憶への過信は、経験年数とは無関係に起きる。それがBinhの正直な告白だ。
試合直後のミーティングで話すべきでない理由
Binhのもうひとつの実践が印象的だ。
彼は試合直後のチームデブリーフィング(振り返りミーティング)では、試合の内容についてあまり多くを語らないようにしているという。その理由をこう述べている。
「試合直後に私が言うことは、ほぼ必ず間違っているか、重要でないものになる。感情やバイアスが観察や思考に影響してしまうし、そもそも試合で起きたすべてを記憶することはできない」
(”How Memories Can Fail You”より筆者意訳・要約)
これは、多くのコーチの実態とは真逆の行動だ。試合が終わった直後が最も熱量が高く、「言いたいことがいっぱいある」タイミングで、あえて口を閉じる。映像を見て、データを確認してから話す。
この姿勢の根底にあるのは、「自分の記憶は信用できない」という徹底した自覚だ。
感覚とデータは対立しない
ここで一点、誤解を避けたい。
Binhのブログは「感覚を否定しろ」と言っているわけではない。バレーボールの現場で培われた直感や経験的な判断は、データだけでは捉えられない価値を持っている。
重要なのは、感覚を検証する手段としてデータを使うという考え方だ。「なんとなくレシーブが悪かった気がする」という感覚があったとき、データはその感覚が正しいかどうかを確認する道具になる。感覚が正しければ、データがそれを裏付ける。感覚がズレていたなら、データが修正の機会を与えてくれる。
Binhが発信を続けているのは、「データ万能論」を広めたいからではないと私は読んでいる。「感覚とデータの両方を持つコーチ」を増やしたいからだ。
日本のバレーボール現場へ
日本のバレーボールの現場では、優れた「目」を持つコーチが高く評価される文化がある。それ自体は決して間違っていない。長年の経験から培われた観察眼には、本物の価値がある。
ただ、その「目」が見ているのは、試合で起きたことのせいぜい半分かもしれない。そして見えた半分のうちの一部は、実際には起きていないことかもしれない。
これは批判ではなく、人間の記憶の構造上の限界の話だ。Binhが自分自身を材料にして示したように、どれだけ優秀なアナリストでも例外はない。
スタッツを取り始めることのハードルは、思っているより低い。DataVolleyのような専門ソフトでなくても構わない。ペーパーと鉛筆でも、Excelでも、まず「記録する」ことを始めることが第一歩だ。記録があれば、記憶に依存しなくてよくなる。
まとめ
Binhが*”How Memories Can Fail You”と“Why Do We Need Volleyball Statistics?”*で伝えていることは、シンプルに要約できる。
- 人間は1試合で起きることの半分程度しか記憶できない
- 時間が経つほど記憶は薄れ、シーズンを通じた変化を把握できなくなる
- 記憶は個人のバイアスに強く影響される
- そして——記憶したことが、実際には起きていなかった可能性がある
だからこそデータが必要だ。感覚の代わりとしてではなく、感覚を検証し、補完するものとして。
Binhは自分のコーチングで誤記憶を経験した話を、包み隠さずブログに書いた。失敗を公開するのは勇気のいることだ。しかしその誠実さこそが、このブログを15年以上にわたって読まれ続けている理由のひとつだと私は思う。
次回予告
第2回では、「では実際にデータはどう使うのか」という問いに進む。3人のリベロ、4人のウィングスパイカーから誰をスタメンに選ぶか——Binhが実際に経験したケーススタディを紹介する。
参考リンク
- How Memories Can Fail You (And Thus Why You Should Use Performance Analysis) — thevolleyballanalyst
- Why Do We Need Volleyball Statistics? — thevolleyballanalyst
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